ようやく暖かくなった、ある日のお昼過ぎのことでした。テレビの散歩番組をボーっと見ていると、タレントさんが「袖摺り合うもタショウの縁、といいますからねえ」とつぶやいていました。
ここで、私は「おや?」と思ったわけです。それは、「タショウ」の言い方が「多少」と言っているように聞こえたからです。もしそうだとすれば、これは誤用です。正しくは「他生」であり、アクセントが最初の「タ」に来たほうが「多少」と区別しやすいのです。
意外と「多少の縁」と思っている人は多いようです。恐らく「ちょっとの縁」というニュアンスとして解釈しているのでしょう。私の周囲にも数名いたので、「今生(こんじょう)ではなく、他生(前世、または来世)で縁があったかもしれないという意味ですよ」ときちんと説明しておきました。
やれやれ、と思いながら、一応確認してみると、私の説明もパーフェクトではないことが判明しました。
仏教用語としては、「多生」が本線のようです。前世、来世という限定的なものではなく過去、現在、未来にわたって広く、あらゆる生ということなのでしょう。
さらに、「袖振り合うも」という表現もありました。たしかに「無い袖は振れぬ」という言葉もあるくらいですから、袖は「摺る」のではなく「振る」と考えたほうが的確かもしれません。
どうやら、このことわざは「袖振り合うも多生の縁」と言うのががいちばんよいような気がします。いや、思い込みは怖いと改めて感じました。