どこまで訳すか

私たちが外国の小説を読む場合、ほとんどの方が翻訳されているものを読んでいると思います。翻訳というのは大変な仕事だと思います。原語にも通じていなければならないし、日本語としての文章力も求められるわけですから。

現代では、原語のままカタカナ語として日常使われている言葉も以前より増えたので、それをどこまで訳すか? という問題が生じてきます。

たとえば、「ワイン」などは、わざわざ「葡萄酒」と訳す必要は余りありません。そのままでOKでしょう。

最近、アメリカのある作家の短編集を読んでいて、オヤ? と思ったことがありました。競馬のシーンが出てくるのですが、馬の名前(具体的な名前は失念)を日本語に訳していたことでした。たとえば「ムーンライト」という馬だとすると、「そのレースには『月光』という馬が出ていた」というような訳し方です。

日本での競走馬は名前にカタカナしか使えません。ひらがな、漢字は使えないので、そのままムーンライトでよかったのです。その訳者はアメリカのことなら何でも知っているすごい方ですが、競馬についてはたまたまご存じなかったのでしょう。ですので、競馬にだけは詳しい私が違和感を覚えたのです。

逆に、日本語を英語表記する場合もどう訳すせばよいのか、という問題が生じるときがあります。

たとえば道を英語表記する場合、「○○通り」というのがありますが、以前は「○○DORI STREET」と表記されていて、私などは違和感を覚えたものでした。ダブっていますものねえ。それが最近は「○○STREET」と改善されているようです。

英和・和英をどこまで訳すかはむずかしいですが、少しでもよいと思えば、そちらに迅速に改善していく姿勢が大事なのではないかと思った次第です。

 

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