視点の問題

本日、あと数時間でイラク戦が始まりますね。

不調の香川に代わって清武が入るようです。
トップは岡崎か浅野か?

と、いろいろ気になりますが、主役は選手よりも監督の感もあります。
今日ドロー以下なら解任か? などという記事も出ています。

11日にオーストラリア戦がありますから、たとえ負けても明日解任はないとは思うのですが、何が起こるかわかりません。

スポーツ紙の見出しを見ていると解任を期待してるかのごとく読めます。
それぐらい、ハリルはいらいらが募って当たり散らしていますね。

こうなるとわざわざ、日本語が通じない外国人の監督を起用する意味があるのか、考えてしまいますよね。
もし、監督が変わるなら日本サッカー界にとっての転機にしてほしいですよね。

さて、今回は視点の話です。

文章には視点がありまする。
これはきわめて重要です。
なぜなら、視点がはっきりしている文章は理解しやすいからです。

通常、自分史などは自分ことを書くわけですから「私は~」と一人称で書き進めます。
これを内部視点といいます。

それに対して、外部視点は三人称で、小説などでは、この形が書きやすいです。

この三人称、つまり外部視点を徹底的に貫いたものが、「神の視点」といわれるもので、天上から、登場人物の過去・現在・未来すべてを見通しているという状態で書くものです。

ここで問題になるのは、文章の視点はブレやすいということです。

たとえば「私は~」でスタートして、自分のことを書く時点では何の問題もないです。
時系列で進めれば、幼少時代の話から始まり、いたずらをしてこっぴどく怒られて怖かったとか、内部視点でスムーズに運びます。

でも、一冊全部自分だけの話というわけには行きません。

家族、友人、恩師、同僚、上司など、周りの人たちがあってこその自分です。
その人たちを書くときの視点はどうなるのでしょうか。

たとえば、外形的なことを客観的に書くのは問題ないですよね。
「母は大正3年に東京都練馬区に生まれた」などは。

次に、エピソードなどは「幼い頃からおてんばであったようだ」というふうに、伝聞的な感じで書けば何とかなります。

でも、それが延々と続くと、読みにくくなりますし、たとえばお母さんの心の動きを書くときには、困ってしまいます。

「母はきっとこう思ったに違いない」など、視点を貫くために、かなり無理しなければならないのはつらいです。

無理は禁物です。
こういうときの、視点の多少のずれはしかたないのです。

ですので、視点がずれても、お母さんに思いっきり心のうちをぶちまけさせてあげてください。
読むほうは納得できます。そのほうが自然な感じで読めるからです。

このあたりはバランスの問題です。
明らかに視点が逸脱してしまうと不自然になります。

そういう場合は、1章を別に立てて、「母の奮闘」などと見出しをつけて、「母は~」と三人称で書いても、お母さんの内部視点であるかのような自然な感じに持っていけばよいのです。

このように視点に注意すると、文章力がアップすると思います。

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