目が合った

このところ、死語について書いていましたが、なんでいまごろそんな話を? というような「死話」というか「死エピソード」のようなものもあるのだと気づきました。

 

住宅設備大手・リクシルの社長が山本環境相と面談した際に不適切な発言をしたという記事が出ていました。

 

面談の目的は地球温暖化対策についての意見交換だったのですが、その前のあいさつで大臣から「体が大きいですね」と言われた社長が「放射能のせいで大きくなったんです」という旨の発言をしたらしいのです。

 

福島原発事故のことは忘れてしまったんでしょうか。

 

でも、若い人にはこの「放射能のせいで大きくなった」というのがピンとこないかもしれません。

 

1950年代のアメリカ映画ではやったSFパニックものがその原点です。

クモ・アリなどの昆虫や人間が放射能を浴びて巨大化するというものが多かったのです。

 

タイトルが「原始怪獣~」とか。

日本のゴジラもその影響を受けて生まれたといわれています。

 

そのことが社長の頭にあったのでしょう。

あまりに軽率でした。

 

 

さて『からだことば』から今回は「みる」です。

目に関することばです。

 

目線ということばはいまよく使われています。

「上から目線」ですね。

 

「目線」は「視線」を柔らかくしたことばですが、本来は目の位置の線のことです。

カメラを自分の目の高さに据えて撮ることを「目線で撮る」といっていました。

 

いまは視線ということばがちょっと冷たいニュアンスなので、目線というようになりました。

 

さて、目で「見る」ですが、それを日本人は「目」ということばを使って表しています。

 

「目をそそぐ」とか「目を合わせる」とか、ただ「見る」のとはちがうメンタリティがあります。

 

「目が合う」「目を合わせられなかった」微妙な心理状態が感じられます。

 

「みる」という字もさまざまで「視る」となると、正確性、科学的なニュアンスが出ます。

「顕微鏡で視る」など。

 

映画・演劇・絵画は「観る」。

「人生観」の「観」ですから「考える」感じです。

 

医師に「診て」もらうのは「診察」からです。

看護師、介護士には「看て」もらいたいですね。

 

「看取り」ともいいます。

「看」という字はなるほど、「手」の下に「目」があります。

 

ケアは「手をかける」ということですね。 

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