日弁連がこの10月の大会で死刑廃止宣言をする準備を進めているようです。
はたしてこの宣言がどれぐらいの影響力を持つかはわかりませんが、大きな議論を呼ぶことは確かだと思います。
現在、世界の流れは死刑廃止に向かっています。
主な国ではドイツ、イタリア、イギリス、フランスなど。
死刑の存置国は、先進国ではアメリカ、中国、日本ぐらいなもので意外と少ないです。
存続の理由としては、被害者遺族の感情が挙げられますが、これだけ廃止している国が多いと、そのあたりがどうなのかも、これからいろいろ取り上げられると思います。
その意味では、この宣言が、死刑制度を考えるよいきっかけになるかもしれません。
さて、死刑の話の続きというわけではないのですが、死に関して記述するときの話です。
原稿や、本のプロフィールなどにすでに亡くなられた方について書く場合、「昭和○○年没」
などのように書きますが、日本語では死に関する表記にバリエーションがあります。
たとえば、クリスチャン(プロテスタント)の方の場合は「召天」という言葉を使います。
これを昇天とまちがえることがあるので、注意したいです。
召天とは、天に召されるということなので、必ずしも悲しいだけではないというニュアンスになります。
キリスト教思想家であった内村鑑三は、愛娘を亡くしたときに、「ルツ子さん(天国に凱旋して)万歳」と叫んだそうです。
一般の方の場合には「没」「物故」などがよく使われるます。
挨拶状などでは「他界する」も使われます。
敬語として使う場合は「逝去」が多いような気がします。
ですので、身内に「祖父が逝去しました」などとは使いません。
「亡くなる」は本来敬語ですが、身内でも「死ぬ」の婉曲な言いまわしとして使うようになっています。
他人に対しては「亡くなられた」とすれば敬語的な表現になります。
故人の著書を身内の方が出版される場合に、プロフィールに故人の死についてどう表記すればよいのか相談されることがよくありました。
「死去」でもよいですが、なんとなく寂しい気がするので「物故」「没」などにしてみてはいかがでしょうと、アドバイスさせていただいた記憶があります。