昨日は成人式でした。
相変わらずのバカ騒ぎが各地で見られましたね。
税金を使ったイベントなのですから、服装チェックがあってもよいような気がします。
男子はグレー、紺、黒のスーツ以外はだめにすればよいと思います。
さすがに彼らも地味なスーツであのパフォーマンスはできないでしょう。
キンキラキンの和服姿の彼らを、後輩たちが「かっこいい」と見学に来ているそうです。
ですので、来年も同じ騒ぎになることはまちがいありません。
ちなみに私は成人式には行きませんでした。
友達がいないから? と突っ込まれそうですが、だいたい当たってます。
高校を卒業した年に東京から神奈川に引っ越したので、会場で小・中・高の知り合いに会う可能性はゼロでした。
さて、今回からは『日本人として知っておきたい 日本語150の秘密』(沢辺有司 彩図社)を取り上げてみます。
著者はフリーライターで、哲学、芸術、宗教、古典など幅広いフィールドに通じている方です。
その中から「ふりがなは書き手の自由な表現手段!」の項を。
そもそも、書いた文字にわざわざふりがな(ルビ)をつけるのは日本語だけです。
それを自由な表現手段にするというのは、たとえば永遠(とわ)、英雄(ヒーロー)など、いまでも歌詞などでよくやられているふりがなのつけ方のことです。
なぜそうなったかというと、これは日本語の成り立ちと関係があります。
こうした自由なふりがなは室町時代からあったのです。
もともと話し言葉としての和語があって、それに中国から流入した漢字を当てはめたのが、漢字とふりがなの関係です。
室町時代にはさらに大量の漢字が入ってきて、それを、まあ適当なふりがなに当てはめるしかないという状況になり、そこからふりがなと漢字の自由な関係が生まれといわれています。
ここであらためてすごいなと思ったのは夏目漱石です。
『それから』には「判然(はっきり)」「幻像(イリュージョン)」「平生(いつも)の」などの表記が見られます。
漱石は『坊っちゃん』でも「一体生徒が全然悪いです」という表現を使っています。
現在の「全然OK」と同じです。
さすが先駆者はちがいますね。