美しすぎる生きざま

最近、気になる日本語に「美しすぎる」という言葉があります。
「美しすぎる市議」とか、見出し風に使われています。
あまり通常の文章では見かけませんね。

一種のバラエティ用語というか、肩の力を抜くような記事のときに使われることが多いのでしょう。
ですので、あまりまともに論じるのも大人気ないですが、私などは、ひねくれているので、美しすぎると、そのまま一周回って元に戻ってしまうんじゃないかと心配してしまいます。

むかし、サラ金の帝王と呼ばれている人が、テレビで悪徳商法について追及されて、
「いや、私はそのような人たちとは、やり方が正反対です。360度違います」とコメントしていました。
360度だと、元と同じじゃん、と思わず突っ込んでしまったことがありました。

「美しすぎる」がこれだけ蔓延しているのも、「美人姉妹」など、美人○○という言葉が使われすぎて、すでに賞味期限を過ぎてしまったせいかもしれません。

「美しすぎる」も乱用すると、そのうち、また新しい言葉が必要になってくるでしょう。

ほかで、気になる日本語といえば「生きざま」も見逃せません。
しかしこれはもう、すっかり定着していますね。

もともとは、なかった言葉です。あったのは「死にざま」です。
そこから、派生して、誰かが一種の新語として「生きざま」を使ったのでしょう。
やはり「生き方」という言葉が、賞味期限を迎えていた時期だったのかもしれません。

死にざまも、よい表現のときは使いません。
「安らかな死にざまでした」とは言わないですから。
何か、安らかでないときに使われました。

ですので、嫌いな言葉として、「生きざま」を糾弾する人はけっこういました。
私の知るかぎりでは、まともな作家やエッセイストが多かったと思います。
私にとって彼らは先生ですから、先生の言うことはきちんと守るべきだと今でも思っています。

特に、葬儀などで、故人について語るときに使いがちな言葉なので、元は誤用であることを少し頭に入れておいたほうがよいかもしれません。

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